2026年8月14日金曜日

華青闘告発

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%9D%92%E9%97%98%E5%91%8A%E7%99%BA


華青闘告発(かせいとうこくはつ)は、華僑青年闘争委員会1970年7月7日におこなった、当時の日本の新左翼運動がマイノリティ問題を主要な課題と捉えていないことを論点とした告発である。七・七告発とも呼ぶ。

背景

在日中国人学生と新左翼運動

善隣学生会館事件は、在日中国人学生と日本人新左翼が関わりを持つ契機となった。

戦後、日本の旧植民地出身者の地位は「日本人」から「外国人」へと変化し、その政治的立場は不安定なものとなった[1][2]

華僑青年闘争委員会(以下、「華青闘」)設立の前史としては、1967年の善隣学生会館事件がある。当時、文京区善隣学生会館に本拠地をかまえていた日中友好協会日本共産党系と中国共産党系に分裂していたほか、同会館の寮に居住する在日中国人学生には、文化大革命および紅衛兵運動の影響を受け、政治的にラディカルな立場を取る者も多かった。同事件においては、日本共産党の動員部隊と中国人学生が衝突し、中国人学生側が重症を負った。日本共産党と対立する新左翼諸派は中国人学生を支援する立場を取り、特に社学同ML派は同事件を契機として日中青学共闘会議を結成した。また、1968年には、中国語検定試験制度反対闘争がおこる。これは、東亜同文会を前身とする組織である霞山会の人物を幹部に含む民間団体が、中国語検定試験を実行しようとしたことに反対する運動であった[3]

華青闘の設立と入管闘争

ハワイ大学留学中にベトナム戦争反対デモに参加した陳玉璽中国語版が、1968年に日本への居留を拒絶され、同年6月強制送還先の中華民国で死刑を求刑された陳玉璽事件は、在日中国人学生に強い衝撃を与えた[4]。また、翌1969年に国会に上程された出入国管理法案には、日本に在留する外国人の遵守事項のひとつとして政治活動の制限がふくまれており[5]、終戦から間もない時期であったことも影響して、同法案の統制を思わせる文言は強い反発を招いた[6]。また、同時期に国会に上程された外国人学校法案は、国内での民族教育を制限する内容のものであり、これも旧植民地出身者を中心として抵抗の動きがあった[7]

こうした状況を背景として、1969年3月9日には、在日中国人学生を中心とする政治組織である、華青闘が結成された[4]。毛沢東思想を基調とする同組織には、善隣学生会館闘争を担ったグループが多く合流していた[8]中華民国留日華僑連合総会東京華僑総会が比較的柔和な姿勢をとったことも関係し、在日中国人のあいだでは当初反対運動はあまり活発ではなかったが、華青闘はこうした組織とは異なり、両法案に対する反対運動を展開した[4]

3月25日には華青闘とML派・東南アジアからの留学生・アメリカ人平和運動家などが国際青年共闘を結成し、同28日の出入国管理法案粉砕東京実行委員会には国際青年共闘・ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)・革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)が参加した[9]。華青闘らは、「旧植民地出身者への排除と差別を制度化した」制度であるところの「入管体制」そのものに反対するようになり[4][10]、在日外国人の強制送還や、大村収容所の運用などが広く反対運動の焦点になった[11][12]。5月から7月にかけて、入管闘争は数千人が集まる大規模な運動として展開されたものの、多くの新左翼組織は最重要課題として革命に向けた武力闘争を重視しており、絓秀実によれば、この闘争は「党派の要員をピックアップするためのカンパニア的な運動としてしか位置づけられていなかった」[12]


中国の陰謀やろ

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